療育、遊んでるだけ⁉
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娘が療育に通い始めたのは3歳のころ。
*娘の療育の経緯はこちらから
言葉が遅くて発達検査を受けたこともあり、
本当は一番に言語療法を受けたかったのですが、
場面緘黙症をもつためか、年齢が小さかったからなのか、
最初に始まったのは「遊びの教室」。
そして最初の1年間は、この「遊びの教室」のみ。
今振り返ってみても、
この最初の1年間が一番しんどかったように思います。
それはモチベーションを保つ、という意味が大きいです。
なぜって、
遊びの教室って、文字通り、遊ぶだけですから。
言葉が遅くて心配してるのに、
ただ遊んでるだけに思えて、本当にもどかしかった。
それもたった月に2回。
車で20分かかるところまで通うのも、
幼稚園をちょっと早退してまで行くのも、
そして何だか子どもより自分が一生懸命遊んでるみたいで、
こんなことして意味あるん?
って何度も思いました。
でもいつか、
場面緘黙症の娘が話してくれるようになるかもしれない、
先生とわたしと3人で遊んでるうちに、
娘の緊張のカラが破られるかもしれない。
そんな思いで最終的には卒園までの3年間、
ひたすら心を無にして通いました。
結論から言うと、
3年間通って、
場面緘黙症が克服できたわけでも、
目に見えて発達が促されたわけでもありませんでした。
でも無駄だったとは思いません。
今になって思えることですが、
療育って、できないことをできるようにするものではないという考えに至ったからです。
こんな風に言うと語弊がありますが、
療育に通ってできるようになったこともたくさんあるんです。
というか、発達が遅くても発達はするので、
当然できることも増えてきます。
ただ、根本的に抱えている困難そのものを取り除くものではない、という意味です。
娘の場合だと、
知的障害をなかったことにするもの、ではないということです。
療育に通い始めのころ、
療育に通って遅れを取り戻せるかもしれないという淡くも大きい期待がありました。
その期待から、
なんとなく療育のイメージが、
お勉強だったりトレーニングだったりしたのだと思います。
それを家で遊んでるようなことを
わざわざ遠くまで通って同じようなことをやっているだけだとしたら
そりゃあ遊んでるだけじゃん!って思います。
その反動から、
わたしは家で娘にビシバシ勉強をさせた時期もありました。
公園で遊んでいても、
急に地面に数字を書いて、「はい!これは?」とかやりだすもんで、
娘は嫌だったと思います。
なんじゃこの公園遊びは?
公園って数字を書くところでしたっけ?
そんな顔をしてたかもしれません。(ごめんね)
〇〇ゼミも手を出しました。
高額な通信療育なるものも、うっかり手を出しそうになりました。
だって療育って言ったって、
遊んでるんなら家で勉強させるしかない!って思ったんです。
育ちの基本はあそびだって、よく言われます。
遊びの中に、大切な学びがあると。
でも今まで遊んでばかりきたけど、発達遅れてんじゃん。
わたしが意図的に勉強要素を取り入れなかったからか!
って思っちゃったんです。
(後に気付きますが、
勉強要素も、遊びの中にうまく取り込むことが大切なんだとか。
「さぁお勉強しますよ!」って言ったって、
楽しくないことは身に付きません。と教わりました。)
ところがある日、
幼稚園で過ごしている我が家の療育っ子を見ていると、
周りのお友達があそびの中で自然と学べることが、
娘には「自然と」身に付くものではなかったことに気付きました。
それはお友達との関係作りから、
やりたいとかやりたくないとかっていう自分の意思表示、
工作を通じて自分のアイデアを形にすること、
などなど、
ほんとにいろんなことが、誰かの手助けなしにはできない娘。
場面緘黙症という超・抑制的気質と、
少しの発達の遅れから、
周りのみんなと同じことが、
気持ち的にも能力的にも、できないことが多かったんです。
その部分を補うのが療育。
例えば、
声に出して伝えることが難しくても、
こうやって表現すれば伝わるんだよ、とか、
もっと単純に、イヤなことはイヤだって、首を振ればいいんだよ、
そんなことも療育の先生が丁寧に関わってあげることで
1つ1つ教えてくれていたんです。
だから先生は
我が娘の意思表示は、必ず尊重してくれました。
やりたくないことは無理にやらせない。
これがしたい!という遊びが見つかるまでいろんな提案をしてくれました。
そして親であるわたしに対しては、
娘がどういう困難をもっているかをちゃんと理解して、
それを補うためにできることを探す、という道筋を教えてくれたと思います。
子どもが持っている困難さを正面から挑むんじゃなくて、
乗り越えるためのツールや違う道を探すことで「できる」を増やすイメージです。
だからあそびの教室の先生は、
子どもへの接し方は一人一人違っていたと思います。
娘のように感情が内にばかり向いている子には、
自己表現を引き出すような接し方を、
感情が外に向きやすい子には、
感情と行動のコントロールの仕方を、教えてくれていたんだと思います。
だからすごーく子どもを見ています。
もう観察といってもいいくらい、見ています。
緊張が強いときの仕草とか、
わずかな目の動き、
そしてそのおかげで、
ボーっとしているように見える欠神てんかんを持っている可能性を教えてくれたのも、遊びの教室の先生でした。
またあそびの教室の先生は発達のスペシャリストなので、
子どもの遊んでいる様子から、発達の具合を推し量ってくれます。
娘のように、場面緘黙症で、
発達検査を受けても、「やらない(やれない)」場合でも、
やらないだけなのか、本当にできないのか、
それを推し量ってくれました。
発達検査の結果数値はこうだけども、
普段の様子から、推測できる数値はこのくらい、
ということも教えてくれました。
ただ、この場合も、
やらないといけない場面で、やれない、のも理解してあげるべき困難のうち。
発達検査の結果数値が物語る娘の困難さを受け止めるように諭してくれたのも遊びの教室の先生でした。
確かに娘の発達というところにフォーカスすると、
遊んでるだけで、どの辺が療育なん?
と思ってしまいましたが、
療育って、子どもの発達そのものをぐんぐん伸ばすというより、
発達しやすい環境を整えることで、
子どもの「できた」を増やすこと。
この「できた」という経験を積むことこそ、
子どもが自ら育とうとするベースになるもの、そう思います。
自分の表現の仕方をちょっと変えたら、
今まで行き詰まっていた友達との関係に良い変化があった、
そんな経験を一緒に丁寧に関わってくれるのが「遊びの教室」という療育のようです。
確かに目には見えないくらいの小さな小さな段を積み重ねている時はめちゃくちゃ辛いです。
賽(さい)の河原かよ!ってくらい、
何度も振り出しに戻される気分というか、
そもそも積んでるものが小さすぎて見えないんですけどー❕❕
それをどうやってモチベーションを保てというんですかー?
ってなります。
なので、あそびの教室の先生方には申し訳ないですが、
療育、遊んでるだけって思われてるのも、しょうがないです。笑
実際遊んでますしね。
でも実は子どもと遊ぶのって、結構難しいと思います。
子どもと遊んでても、これ以上はダメとか、
それはしたらダメとか、
そんな言い方は・・とか、
わたしはあんまり得意じゃないです。
子どもと遊ぶの、正直疲れます。笑
でもこれこそ、遊びの教室の真の姿じゃないですか?
そう、大人はただ楽しいだけじゃない、
わたしのように疲れてしまう人がいるくらい、
難しい作業なんですよ。
子どもにとっていい影響を、と思っての遊びは
本当に尊い時間なんだと思います。
だから遊びの教室を、
遊んでるだけじゃんって思えたわたしは、
先生と同じように子どもと遊べている、ということで、
普段ちゃんと子どもと関われてるって証拠じゃないか⁉
すごいぞ、わたし!
実際振り返ってみると、
わたしたち親子にとって決して無駄な3年間ではありませんでした。
それは娘の困難から目をそらさずにいられたことで、
娘の育ちに必要なものを探す力が付いたこと。
娘は娘なりにちゃんと育ったこと。
その娘なりの育ちを、ちゃんと認めてあげらること。
こんな二人三脚のような3年間でした。
今だって、
もっとこうなってほしい、
これもあれもできるようになってほしい、
親だから当然そんな気持ちもいっぱいあります。
なんでできないんだよー!
って思うことだって、正直いっぱいあります。
でもそんなときに、
帰るべき原点が、わたしにとってはあの3年間です。
期待も欲も不満も、あって当然。
ぶちまけることだって、必要だと思います。
ぶちまけた後で、帰るところがあればそれでいい。
子どもと遊ぶことができた自分が、ちゃんとそこにいるんだから!