場面緘黙症の療育に欠かせないもの
わたしが考える療育とは
- 療育・就学を経て見えてきたもの
- 「話せるようになること」にフォーカスしすぎていた
- 「話すこと」より先に大事なこと
- 「安全欲求」を満たすこと
- 学校が安全だと思えるために
- 大事なのは「伝えられるようになる」こと
- これまでの療育で得ていた”芽”
1.療育・就学を経て見えてきたもの
我が家の療育っ子は、知的障害と場面緘黙症を持つ小学2年生の女の子です。
娘は3歳の時に場面緘黙症と診断されました。
場面緘黙症を疑って受診したのではなく、言葉の発達を心配して発達検査を受けた時に診断され、思いがけない事実に病院からの帰りに早速書店に向かったことを今でもよく覚えています。
場面緘黙症については、よくわかっていないことばかりで、当然症状を緩和するための方法も情報が少なく、流れにのってなんとなく療育に通う日々。
場面緘黙症の療育といえば、
あそびの教室などに代表される心理療法や、
場面緘黙症の人が話せる人を介して、話せる人・話せる場所・話せる場面を増やすことを目指すもの、などがあります。
娘が幼稚園時代には、わたしも娘が娘らしくに話せるように!と上記のようなアプローチにも積極的でした。
では実際効果があったか?というと、
効果判定できるほど、長期に渡って安定した取り組みができなかった、と答えるほかありません。
それは単年で担任の先生が変わったり、
卒園と同時に療育センター通いも終了になったり、
環境の変化が、娘にとっては早すぎるものだったからだと感じます。
ですが就学を迎えて、
今から思うと症状緩和に向けた礎は育っていたのかな?と思うこともあります。
娘は特別支援学校に通っていますが、
場面緘黙症の症状が少しずつ緩和しています。
クラスの友達や担任の先生と、
家族と同じくらいに会話を楽しんでいる場面が増えてきました。
せっせと療育に通った幼稚園時代と今、
一見別の環境で、一から環境・関係を築き上げたと思いがちですが、多分1本の同じ線上にあるように思います。
そのヒントになったのが、
最近出会った心理学「マズローの欲求5段階説」です。
これまでの経験から、
わたしが場面緘黙症の療育に欠かせないと思ったものについてまとめたいと思います。
2.「話せるようになること」にフォーカスしすぎていた
場面緘黙症を持つ娘の療育を始めた当初、
やっぱり強く思っていたのが、
「話せるようになってほしい!」
という気持ちです。
この気持ち自体は、
捨ててはならないもので、あきらめてはいけないものです。
それに場面緘黙症を克服することは、
言うまでもなく、
話せるようになること
です。
特定の人だけじゃなくて、
必要な場面で必要なことを話せるように、
または交友関係を築くために会話を楽しめるようになること。
疑いようもなく、これがゴールです。
そう、ゴールなんです。
ゴールであって、最初から目指すものじゃないのです。
だから最初は、
相手を限定して少しずつ慣らしていく、
話せる人(親など)を介して話す場面に慣れていく、
というアプローチをします。
当時のわたしは、
このアプローチをしている時も、
笑い声でも、小さな一言でも、
それが出ることをひたすら望んで、一喜一憂して疲れ果てた時期もありました。
でも今、思うことは、
この時取り組んでいた、一回一回の時間の中で、
娘の中に貯まっていくものがあって、
それは
関わる先生との間にある
「安心感」
だということに気付きました。
この人は、この先生は、
自分にとって、絶対的に味方であって、困ったときに助けてくれると、子どもが本心から思えるかどうか。
この安心感を貯めるのに、
たくさん時間がかかるのが場面緘黙症なんじゃないか、と思うようになったのです。
一般的に年齢が小さい時は特に、
子ども同士というだけで、心のバリアが薄くなります。
仲良しのお友達とは少し話せるのだけど・・という状態は、確かに娘にもありました。
対大人の方がハードルが高かったんです。
でも年齢が小さいほど、大人のヘルプが必要な場面がたくさんあるのも事実です。
場面緘黙症の症状は、
話せないというだけでなく、
動けなくなる、というものもあります。
つまり意思表示がすっごくやりにくい状態です。
本人からの意思表示がないので、
どうしてあげたらいいのか分からない、
というのが支援者の気持ちだと思います。
とりわけ学校という場所は、
多くの子どもたちに対して数少ない先生=支援者という構図なので、意思表示ができない場面緘黙症の子たちにとって、とても厳しい場所になり得ます。
そんな学校で先生と心を通わすことができれば、
困った時、「困っています」と伝えられる
ようになり、
学校という場所が、
子どもにとって「安心・安全な場所」になる一歩かと思いました。
3.「話すこと」より先に大事なこと
それは
「困っていたら、助けてくれると思えること」
「この人は自分の味方だって思えること」
この気持ちが子どもの中に育っているかどうか、じゃないかと思うのです。
この気持ちを育むための関わりが、
先生と個別に関わる時間を設ける取り組みだったりするわけですが、
個別の時間を設けるだけでは、正直限界があるように思います。
それは個別の時間よりも、
はるかに長い時間を、子どもと先生は学校という同じ場所で過ごしているからです。
つまり、先生の日々の子どもへの愛情が欠かせないと思うのです。
特別に何かをしなくても、
『あなたのことをちゃんと見てるよ』
という温かい空気で接してくれていることが欠かせないのです。
娘が幼稚園時代にこんなことがありました。
腕に小さな青あざをいくつも作って帰ってきました。
明らかに誰かにつねられたような痕・・
きっとつねられている時は、
痛くて、やめてほしくて、先生に助けてって言いたかったと思います。
でも声もでない、身体も動かない。
子ども同士のトラブルはつきものですが、
助けを求めることができなかった娘にとっては、恐怖だったと思います。
先生だって、娘1人を見ているわけではないので、
先生を責めるのも間違っている。
だからせめて、事が起こった後にでも、
先生から「こんなことがあって、ツラかったね」と娘に話かけてやってほしいと頼んだことを覚えています。
常に見ていることはできなくても、
娘からのSOSが出た時は、絶対助けるから!という先生からのメッセージだけは伝え続けてほしかったからです。
場面緘黙症の療育って、
先生から受け取る「安心感」を貯めている最中なんだと思えれば、
療育に臨む親の心が少し軽くなります。
だって、一番効果的なのは、
先生が安心メッセージを伝え続けること
なんです。
親が必死になって、子どもの反応の一喜一憂しても、変わらないという境地です。
親はもう子どもの安全基地になっているので、
親がいくら安心メッセージを送ったって、効果は薄いわけです。
場面緘黙症の療育って、
学校という場所で安全欲求を満たすこと
こう考えることができるのです。
ここでマズローの欲求5段階説です。
4.「安全欲求」を満たすこと
場面緘黙症の子にとって、
家=安全・安心な場所
それ以外はつまり、安全・安心じゃない場所なんじゃないかと思います。
「マズローの欲求5段階説」
これは最近不登校になった我が家の長男の件で知り得たものですが、つまるところ子どもの心が内に向いている状態として捉えれば、場面緘黙症にも当てはめて考えることができるのではないかと思ったのです。
マズローの欲求5段階説について詳しくはこちらを見て頂いて、
端的にいうと、
一番底辺にある生理的欲求が満たされると、1つ上の階層の安全欲求が生まれ、
安全欲求が満たされれば、もう一つ上の社会的欲求が生まれる、
というものです。
場面緘黙症の子たちにとって、
学校は安全欲求が満たされない場所
だと思うのです。
逆に言えば安全欲求が満たされれば、
次なる欲求である「社会的欲求」が生まれる。
つまり、もっとコミュニケーションをとってみたいと思えるようになる、ということです。
もし学校が、 困っていても 「困っています」と伝えられない環境、 困っていても 「助けてくれない」不安のある環境 なら つまり学校が子どもにとって 「安全ではない」場所
5.学校が安全だと思えるために
場面緘黙症の子どもの安全欲求を満たすために、じゃあ何ができるのか。
先生と個別の時間を設けることも、
もちろん貴重な時間になりますが、
この個別の時間こそが効果を発揮するんだという気持ちは、一旦横に置いていいと思います。
個別の時間を確保しようとすると、
親は気力も体力も、果てしない気遣いも必要になってきて、本当に大変です。
なので、個別の時間を設けるというアプローチは、
先生の目を我が子に向けさせるため、くらいに思っていてもいいと思います。
親が余裕をもって、笑ってられる方が、
よほど子どもの心に栄養を与えるもんだと、
最近不登校になった上の子との関わりで学びました。
学校という場所は、先生が主体的に動く場所です。
担任の先生は場面緘黙症の子に、
何気ない声掛けをしてくれますか?
「おはよう!今日はちょっと寝ぐせだね~」とか
「また明日!雨ひどいから気を付けて帰ってね」とか
あいさつ+一言くらいの他愛もない声掛け。
また、
担任の先生は場面緘黙症の子と、
目があったらニコってしてくれますか?
というのも、
マズローの欲求5段階説における、
生存欲求・安全欲求・社会的欲求・承認欲求の4つは、
自分以外の他者からしか与えてもらえないもの
とされています。
当人だけの自助努力で、何とかなるものじゃないってことです。
学校ではまず先生をはじめ、大人が向き合ってくれないと満たされるものじゃないってことです。
そして子どもが抱えている、話せないという困難に向き合うより前に、
「ちゃんとあなたのことを気にかけているよ」
というメッセージが子どもにちゃんと伝わっていること、
先生はあなたの味方だよって態度で示すこと、
これらが心に溜まっていくことで、次のステップに進めるようになると思うのです。
娘が幼稚園時代に関わってきた先生方と、自由に話せるようにはなりませんでした。
でも心の中の安心感は、確実に溜まっていて、
それも違う先生からちょっとずつもらったものだったりするのに、
色んな先生と温かく関わってもらったおかげで、
大人に対する漠然とした安心感
みたいなものが育っていたような気がします。
そして、安心感が貯まって芽を出すまで、
長い時間がかかるんだということも感じました。
場面緘黙症の子どものアプローチは、多くの場合長期戦になります。
わたしがやらなきゃ誰がやる!
くらいに、わたしも気負っていました。
でも、このマズローの欲求5段階説に当てはめて考えると、
家以外の場所で子どもの安全欲求を満たすことができるのは、
その場所にいる人だけなんですよね。
わたしたち親は、
ちょっと肩の力を抜いて、
先生には子どもの家での様子とか、
子どもの家で見せる魅力を伝えまくって、
先生が我が子に抱く想いを大きくしてもらえるような作戦も良いのかもしれません。
人の好意って、伝わります。
親から先生へ
先生から子どもへ、
子どもから先生へ、
伝わる好意が増えれば、「特別感」が生まれるような気がします。
娘が幼稚園時代に仲良くしていたお友達で、
娘が家族のように話せる子がいたのですが、
そのお友達は、
娘は他の子には話さないのに、
自分にだけ話してくれることが、特別すごく嬉しいんだって話してくれました。
先生も親も、
「心を通わす」
ことにフォーカスすれば、もっと人間関係を築きやすくなると思うんです。
だって、
言葉を発することができないのは、何も場面緘黙症だけじゃないですよね。
話せなくても心は通じ合います。
なのになぜ、場面緘黙症の子だけが、
「話す」ことを求められ、評価されるのか、
話さないから「ヘンな子」なのかな。
もちろん克服してほしいという願いが大前提ですが、
いつか克服するためにも、
周りにいる人たちが、
場面緘黙症の子が「話すこと」にこだわるのをやめて、
話せないことを理解した上で、人として温かく関わる事をしてくれたら。
場面緘黙症の子の心の「安全欲求」はしっかり満たされていくように思うのです。
それが結果的に、
子ども自身が「話せるようになりたい」って思える環境になるってことだと思うのです。
6.大事なのは「伝えられるようになる」こと
知的障害も併せ持つ我が家の娘は、まだまだ言葉も発達途中。
家族では話せると言っても、何が言いたいのか理解が追い付かないこともしばしばです。
娘の将来を考えたときに、
どうなっていれば安心かな?と考えてみると、
もちろん場面緘黙症を克服しているに越したことはないのですが、
究極は、
必要なことを伝える力
これが備わっていてほしいなと思います。
例えば1人でいるとき、
急に体の具合が悪くなった、
災害が起きた、
日常生活でも他人とやりとりしないといけない場面など。
こんな時に、筆談でもジェスチャーでも、ヘルプカードを見せるでも、なんでもいい。
なんでもいいから伝える工夫ができる力が備わっていたらいい。
学校でも同じだと思います。
話せないから、~ができない
じゃなくて
話せなくても、~できた
と思えることで、自分は大丈夫だと思えるといいなと思います。
これが叶う環境とは、
話せない代わりの方法やアイテムを周囲が許容してくれる、
つまり合理的配慮が当たり前に認められることです。
間違っても話せる子と同じ評価基準で評価してほしくないです。
合理的配慮の提供が法的義務として改正されました!
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自分に対して自信を失わなければ、年齢に従って乗り越えられるものも大きくなる。
できないこと(話すこと)に執着するんじゃなくて、
できること(代替え方法)を増やすこと、
これって、療育の根本的な考え方ですよね!
そして場面緘黙症は、
克服できる可能性を大いに秘めています。
本人が自信を持ち続けられる限り、
この最終ゴールに向かっていつまでも希望が続いているってことです!
ちなみに、最近よく耳にする「自己肯定感」も、
このマズローの欲求5段階説に当てはめると、「承認欲求」にあります。
これもまずは「安全欲求」が満たされて、
その上の「社会的欲求」が満たされて、芽生えるものだとされています。
社会的欲求は、発声を伴うコミュニケーションに限られたものではありません。
その人にあった形のコミュニケーションであれば良いのです。
7.これまでの療育で得ていた”芽”
娘が幼稚園時代に通っていた療育では、
遊びの教室を始めマンツーマンでのものや、少人数でもがっつりと大人と関わるものばかりでした。
通っていた当初から、少し話ができた先生もいます。
ですが卒園し、療育も卒業し、また振り出しです。
それを今振り返ってみると、必ずしも振り出しではなく、
「信頼できる大人もたくさんいるんだ」
娘がそう感じていたんじゃないかな。
それこそ療育の成果だったんじゃないかな。
そう思います。
今、小学校でも、もちろん誰とでも話ができるわけではありませんが、ちょっと探りを入れてみて、大丈夫そうだと思えたら、必要なことを言えるような場面も増えてきています。
現実社会では必ずしもそうだと言い切れませんが、
今の娘にとって、特に関わる大人は、
「どの先生でも大丈夫、助けてくれる」
って思えていることがすごく大きな意味を成しています。
当時は効果を実感できなかった療育も、
色んな先生とがっつりと関わってきた経験がちゃんと積めていて、
芽が出ていたのかな。
その芽に水をやり、大きく育ててくれている今の学校の先生。
場面緘黙症に効く特効薬みたいなものはないけれど、
克服するには本人と親だけが努力すれば良いってものでもなくて、
関わる全ての方々が、その子を想う心が欠かせません。
一人一人を大切にする心こそ、合理的配慮の根幹だと思うからです。
先生方には、どうか子どもたちの揺るぎない味方であると示してあげてほしいと思います。
日本は個人より周囲への影響を大事にする風潮がありますよね・・
他の子に示しがつかないとか、
あの子だけズルいとか、
それを回避するために、できませんって言われたこと、多いです・・
平等ってみんな同じように扱うことじゃなくって、
みんな同じように大切にされるってことなんじゃないかと思うのです。
日本で障害福祉が遅れている原因、コレじゃないかな・・
合理的配慮、もっと広がれ~!