場面緘黙症児が医療現場に望むこと
◆厚生労働省に届けるアンケートが実施されています
現在、場面緘黙症の人たちの声を、厚生労働省に届けるためにアンケートを実施している強い味方がいらっしゃいます。
以下Tweetを転載します。
この記事では、わたしがこのアンケートに回答した内容について、「医療現場に望むこと」を痛感した出来事を振り返りながらまとめました。
◆医療現場への要望がはっきりした出来事
兼ねてより、教育現場や医療機関はもとより、一般社会において場面緘黙症の認知度を向上させるべく地味にコツコツとブログを続けてきましたが、いざ具体的に困難や要望となるとうまく言葉にすることができませんでした。
ところが、なんとタイムリーにてんかんの定期脳波検査を受けることになっていて、その日、まさしくこういうことか!という出来事がありました。
娘のてんかんでお世話になっているのは、ここの地域では小児のてんかんを診てくれる数少ない総合病院です。
同じ小児科でも、発達を診てくれる医療機関とは別の病院です。
日常の風邪などでお世話になっているのは自宅近くの小児科クリニックなので、娘は小児科だけでも3つの病院にかかっていることになります。
発達を診てくれる病院や、地域のクリニックでは、関わる医療スタッフの方は限られているので、通院の際に場面緘黙症で困ることはあまりありません。
ところが、このてんかんでお世話になっている病院は大きな総合病院で、脳波検査や検査入院となると実にたくさんの医療スタッフの方のお世話になります。
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以前検査入院したときには、わたしが付きっ切りだったし、ヘルプカードをベッドにぶら下げて交代で来てくださる看護師の方にその都度伝える工夫をしていて、あまり困難は感じられませんでした。
ところが、先日受けた定期脳波検査のときに、場面緘黙症自体の認知度の低さと、目に見えない障害の、目に見えない壁を痛感することになったのです。
総合病院って、受診科をまたいで診察を受けたり、最近では採血や検査の度に本人確認をするため「名前を言ってください」と言われますよね。
その日の脳波検査でも、もちろん聞かれました。
「この子は場面緘黙症なので話せませんが、○○です」
娘の代わりに答えたのですが、その時の検査技師の方の反応が、
「?」
だったんです。
話せないことは分かったけど、場面緘黙症って?初めて聞いた、そんな印象でした。
そのあとこう聞かれました。
「こっちの言うことは全然分からない感じですかね?」と。
決して悪気があって聞いたのではなく、確認したかっただけの自然な疑問だと思います。
ですがこの一言で、わたしは場面緘黙症の認知度の低さを実感したことに加えて、言葉が分かる分からないということと、声掛けが必要か不要かとは別問題じゃない?と思った過去の悲しい記憶がよみがえってしまって、勝手にひどく傷ついてしまいました。
過去の悲しい記憶とは、数年前に亡くなった祖母のお見舞いに行ったときのことです。
お見舞いに行ったときには、祖母の意識は既になく、亡くなる数日前はずっと病院のベッドで苦しそうに唸っていました。
それでも点滴や排尿パックのチェック、身体の向きを定期的に変えてくれるため、看護師さんが来てくれます。
意識がなくても、きちんとノックをして、点滴変えますよ、身体の向きを変えますよって声掛けしながらして下さる方もいらっしゃいましたが、中にはノックもせず、無言で祖母の身体にさわり処置をする方もいました。
・・・意思疎通ができなくても聞こえてるかもしれないじゃん。
・・・触られたら分かるかもしれないじゃん。
意識があるかどうかで、その人の尊厳が変わるわけないのに、物みたいに扱われているのを見て本当に腹が立ったし悲しくなりました。
話は逸れてしまいましたが、検査技師さんの素朴な疑問だったはずの一言で、この記憶がぶわっと蘇ってしまって、ネガティブ思考ループにはまってしまいました。
・・・言葉が分からなかったら、声掛けしても無駄だと?
・・・言葉が分かりませんって言ったら、無言で頭に電極を付けてたってこと?
そんなことは一言も言われてないのに、わたしの頭の中では勝手に生えたトゲトゲでいっぱいになってしまいました。
実際には「言ってることは分かります」って答えたので、その後は優しく娘に声掛けをしながら検査を進めてくれたのですが、1時間くらいある脳波検査の間中、娘に付き添いながら悶々と考えてしまいました。
その時に、改めて思ったのですが、
なんで場面緘黙症であることや、知的障害を持っていることなどは、診察のカルテで共有しないんだろう?と。
◆疑問に思ったこと
例えば基礎疾患など、医療行為に絶対必要な情報についてはもちろんカルテに記載があって、診療科をまたいでも共有できるようになってますよね?
でも障害についてはどうでしょうか?
疾患ではないけれど、その人の大事な情報に代わりはないのでは?
わたしは強い近視と乱視で、コンタクトかメガネがなければ日常生活はまず無理です。
それでもメガネをかけていれば、「目が悪いんです」って言わなくても分かってもらえるし、むやみに「メガネを外して何かをする」ことは強いられません。
でも見た目に分かりにくい障害の場合や、娘のように場面緘黙症を持っていて、「話せない」という状態であるにも関わらず、担当スタッフが変わる度に「名前を言って」と話すことを求められるのは、すごく苦痛だと思います。
なぜカルテに一言、「場面緘黙症です(発語ができない)」と書いてもらえないんだろう。
そうすれば医療スタッフ側も関わる前から心づもりができるし、お互いに困る事はないのに、どうしてそれをしないのだろう。
目に見えない障害って他にもたくさんありますよね。
そういうのを抱えている人たちにとって、分かってもらえず辛い思いをしたり、何度も自身の障害のことを説明したり伝える工夫を迫られているんです。
医療機関ではさらにその上に「疾患」という辛さも抱えて来るのだから、せめて障害については自身で伝える努力は免除してあげてほしい。
カルテっていう情報共有ツールがあるのだから、そこにちょっと書いてもらえれば大きな助けになると思いました。
◆とは言っても自分でも伝えやすい工夫も必要
娘はまだ小学2年生で、どこに行くのも親や大人が一緒です。
でもこの先、もし1人で出かけられるくらいに成長したら、何かのときにストレスの少ない伝え方を持っておいた方がいいと思います。
わたしにできるのは、伝えるためのツールを探して考えて、装備させてあげることかな、と。
例えば総合病院を受診する際は、名前と場面緘黙症で話せないことを書いたカードを携行するか、IDカードのように首からさげる。
ヘルプカードも一緒にネックホルダーに付けられると、目を惹くこともできそうです。
やり取りが必要そうな場面では、メモとペン、
もし筆記が難しければコミュニケーションアプリを使う。
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今できるのは、今度、総合病院で検査を受けるときには、氏名と場面緘黙症について書いたカードを用意して、「名前を言って」と言われたら、このカードを見せる、という手順を一緒に練習することかな。
場面緘黙症で話せないだけでなく、緊張が強い場面ではかん動症状も出るので、「カードを見せる」という動作も難しいことが多いです。
これも練習。
手を添えてカードを見せるという動作を、一緒に練習できるうちにやろう。
◆最後に
つい先日、娘と一緒に見ていたNHKの番組で、同じような場面が紹介されていました。
1人の子が公園のブランコで遊んでいたところ、別の子が「ブランコ代わって」と何度も声を掛けます。 でも何度声を掛けても、ブランコに乗った子は無視するので、怒った子が「代わってよ!」と目の前に現れます。 するとブランコで遊んでいた子はびっくりして、慌てて走り去っていったそうです。 実はブランコに乗っていたのは、耳の聞こえない子だったのです。
この場面、娘と置き換えて考えても、容易に起こりうる場面です。
それにこのままでは、どちらの子も救われません。
でも「代わって」と声を掛けた子が、「もしかしたら耳が聞こえないのかも」と想像することも、ブランコで遊んでいた子が自分の耳が聞こえないことを自力で伝えることも、どちらもとても難しいことです。
だからそんな2人の間を橋渡しできるような、そんな工夫をみんなが考えていけたら。
大きな橋でなくても、小さな橋がたくさんかかるような、そんな未来が来ますように。