場面緘黙の症状
~我が家の療育っ子の場合~
以前3日に渡って、場面緘黙症の経緯をご紹介してきましたが、
今回は場面緘黙症の症状についてです。
以前の記事はこちら
‣「場面緘黙症 診断前の様子」
‣「場面緘黙症 幼稚園時代」
‣「場面緘黙症 小さな花咲く就学後」
場面緘黙症の症状には個人差があります。
文字通り、どんな場面で話せなくなるのか、なのですが、
話せないといってもレベルがあります。
場面緘黙症について初歩的な知識しかなかった頃は、
わたしも話せるか話せないか、の全か無か、のように捉えていました。
ですがそんな端的な話ではなくて、
その状態・症状の出方が、何段階もの階層になっているようです。
場面緘黙症では、
「場所・人・場面」に分けて考える必要があると言います。
どこで、誰と、どんな場面で話せるのか、
あるいは話せなのか。
これが一人一人違うのです。
我が家の療育っ子の場合、こんな感じです。
自宅と自宅以外とでは、
笑い方や泣き方も、全然違います。
これも緘黙レベルに大いに左右されます。
家ではぎゃはははは!と笑って「うるさい!」と言われ、
ギャン泣きしては「うるさい!」と言われ笑、
声のボリュームが常にMAXなんです。
そんなに大きな声で言わなくても、笑わなくても、泣かなくても・・
ちょうどいいボリュームでできませんかね?
そう、外ではミュート(ゼロ)なもんで、
加減が難しいみたいです。
幼稚園時代にこんなことがありました。
幼稚園でも「泣く」ことがあまりできなかったのですが、
たまらず泣いてしまったことがありました。
でもその泣き方は、
「シクシク・・」と音もたてずに静かに泣いていたそうです。
園児たちの声が賑やかな園庭での出来事で、
先生の耳には到底聞こえるものではなく、
密かに泣いていたのを、仲良しのお友達が見ていてくれました。
そのお友達のお母さんから教えてもらい、
家で話を聞いてみると、
お友達の持っていたスコップが、頭にがっつり当たったそうです。
確かに頭が少し腫れていました。
子どもたちは遊びの中で、色んなことを経験します。
お友達とのやり取りで、
痛い思いをしたり、させたり。
「お互い様の経験」で、してはいけないことや謝る事の大切さを学んだりします。
でも、場面緘黙症で声が出せないがために、
泣くほど痛かったのに、
そんな場面にいたことすら気付いてもらえない。
それが何より悔しかったです。
お友達のスコップが当たって怪我をしたことが問題なのではなくて、
それを先生に伝えることができなくて辛い思いをしているのだということを
先生に分かってほしかったんです。
一人をずっと見ていられるわけではないことも分かっていますが、
せめてこんなことがあったら、どんな形でもいいから教えて、と
娘に先生から伝えてあげてほしい、とお願いしました。
先生に言いに来ても大丈夫なんだよ、
ちゃんと受け止めるからね、
というメッセージを、ちゃんと娘に届けてほしかったんです。
話がそれてしまいましたが、
こんなときでも、家にいる時のように、
うるさいくらいギャン泣きできれば、どれほど心がラクだったことか、
そう思ったエピソードです。
家の中と外ではこんな風に、
まるで印象が、性格が違うように見えるんですね~。
さて、学校で話せる場面が増えてきたとはいえ、
学校で、誰とでも、どんな場面でも
話せるようになるには、まだまだ遠い道のりです。
大好きな先生と過ごしなれたクラスで行う活動でも、
初めての活動だったり、ちょっと自信のない学習だったりすると、
緘黙レベルもぐっと高まります。
特に学習の場面では、緊張が強くなります。
できるかどうか・・自信が持てないというのはかんもくっ子にとっては大問題です。
同時に学習面において、
話せないというのは、想像以上に大きなハンデとなります。
例えばひらがなを勉強していても、
声を出せないと、そのひらがなの持つ「音」を確認することがとても困難です。
また数の学習でも、
声に出して数を数えられないということは、
個数を学ぶ上で大きな弊害になりますし、
数え間違いなのか、数字の表記ミスなのか、それを分かってあげることができないんですね。
こんなことよりも前に、
まず発音に苦手があったとしても、
発音の練習とか、発声のトレーニングみたいなものが、
どう転んだって自宅以外で取り組めないんです。
専門の先生に見てもらいたくても、実際の発音を聞いてもらう事もできない。
これがとてつもなくもどかしい。
場面緘黙症を持っていて、
さらに言葉そのものに苦手がある我が家の療育っ子にとって、
場面緘黙症が言葉の育ちを大いに邪魔をしていて、
言葉の育ちの遅さが場面緘黙症を助長している。
負のループ・・・
場面緘黙症がなければ言葉のトレーニングもできたのに。
言葉の遅れがなければ、会話や発音に自信が持てたのに。
超抑制的気質といわれる場面緘黙症では、
自分が自信を持てないことに対して、とても臆病になるそうです。
なので、自信がないことはやらない(やれない)。
娘の場合は言葉に自信がないから話さない(話せない)に繋がってる気がします。
初めての活動などで固まってしまうのは、
何をするかよくわからないことは、
うまくできるかどうか自信が持てない。
だからやらない(やれない)。
できないから練習するんでしょ。
やったことないから、やってみるんでしょ。
よく言うセリフの上位5番にはランクインするセリフでしょうか。
何かを会得するときの、とっかかりというか、
できるようになるための最初のステップというか、
一歩踏み出してやってみることができなければ、
その先はないんです。
これがもう見ていられないくらいにもどかしいんです。
もちろん本人が一番つらいのでしょうけども、
場面緘黙症のやっかいなところは、ここに収束してる気がします。
そしてこの超抑制的な気質は自宅であっても変わりません。
緘黙症状はでないものの、
自信のないことはすぐ
「やって~」「手伝って~」と言います。
「できない」は口癖のように、
「難しい?」も常套句のように聞いてきます。
娘のこんなセリフが、
いちいち母のイライラを刺激することは言うまでもありません笑
やる前から「できない」とか、
「やって」とか、
そんなこと言ってたらいつまでたっても何にもできんわい!
もうこれはある意味、母にしか言えないことだと思って、
「自分で1回やってみて!」
「大丈夫やからやってみたら!」
「なんでも人にやらすな!」
「失敗したらやり直したらいいだけ!」
「間違えたくらいで怪我せんわ!」
こんなやり取りを日々繰り返しています。
場面緘黙症が発動しない自宅でも、
その影響は色濃く受けてるんだな、と改めて思います。
超抑制的な気質であることに、
自宅でも家族であっても、もう少し注意を払ったほうがいいのか、
迷うところでもあります。
自宅の外ではもちろん理解し、
無理を強いることはしないようにしていますが、
自宅では、正直わたしも限界があったりします。
子どもが本音でぶつかってくるなら、
親も本音で返そう。
娘の本音が
「やってほしい」なら、
親の本音は
「自分でやれ」です笑
ちょっと厳しくし過ぎたなぁ・・と反省することも多々ありますが、
娘とわたしは今こんな感じです。
ちょっとワガママ言い過ぎたなぁ・・と娘も反省してるかな?
それともケロっと忘れてるかな?
もう少し大きくなったら、本人に聞いてみようと思います。笑