発達支援アイデア

知的障害と学習障害

~知的障害には学習障害という概念はないのか?~

関連記事「言葉の不安、ふたたび」の続編となります。

関連記事「言葉の不安、ふたたび」

以前の記事「言葉の不安、ふたたび」で出てきた、
娘の構音の問題。

お友達の名前がパッと出てこないことや、
言いたいことがあるのに、発音や言葉の想起(必要な単語を選びとること)がうまくいかないために、発語に結びつかないことに不安を抱えていました。

知的障害をもたない子どもが、読む・書く・話すに困難がある場合、
または数字に特別な苦手感がある場合には、
それは「学習障害」として診断され、学習に工夫がされたり音読を強要されることはありません。

気になった背景には、
娘がもつ知的障害に伴う発達の遅れ方と、
言葉や数字に対する苦手感・定着の遅さに、
大きな開きを感じたからです。

娘に発達の不安を感じた時、
発達障害についていろいろと調べました。

発達に凸凹したものがある発達障害と、
発達全般がゆるやかな知的障害。

こんな風に解釈していたんです。

でも娘を間近でずっと見ていると、
とりわけて文字・言葉・数字に定着の遅さが、これが知的なゆっくりさと乖離している感覚がどうしても拭えなくて、学校の先生に相談したという経緯です。

そこで先日の個人懇談の際、思い切って聞いてみました。

「知的障害をもつ人には学習障害という概念はないのですか?」

その答えは「スペクトラムという考え方」でした。

知的障害を含む発達障害をスペクトラムとして捉える考え方
発達障害をスペクトラムとして捉える考え方

1つの障害を、
ある・なしの二択で線引きして捉えるのではなく、
それぞれの特性をその程度でもって解釈するという考え方のようです。

さらにこの「程度」の中には、いわゆる「健常」も含まれています。

知的障害を含む発達障害は、特性の傾向の大きさで考える
発達の特性を傾向の大小で考える

その子の持つ特性が、
社会生活にどのくらい影響するのか、
学校生活においてどのくらいの困難があるのか、
これを尺度として捉える。

つまり「障害」があるのかないのか、に着目するのではなく、
その子の持つ特性で、どのくらい困っていて、
どんな関わり方が有効なのか、を考える。

このように捉えると、
娘の場合、知的障害というベースに、
「文字や数字、発語や発音に対しての苦手傾向が強い」と捉えることができます。

どんなふうに関われば、
その子がよりよく成長するか、
という視点で考えると、
おのずと適した関わり方、支援の仕方というのが見えてくる。

それでいいんじゃない?と。

知的障害に加えて学習障害も持ってるのだとしたら、
場面緘黙症にてんかんに、
いったいどれだけの困難を抱えて生きていかなければならないのか・・・

そう思うと胸が苦しくて仕方ありませんでした。

でもこの考え方で少しラクになりました。

どんな障害を何個持ってるか、じゃなくて
単純にその子が必要とする支援を続けていけばいいのだと思えるようになりました。

障害を持っていなくても、苦手なことはたくさんあります。

計算が苦手な人、
漢字が苦手な人、
泳ぐのが苦手な人、
大勢でワイワイやるのが苦手な人、
怒りっぽい人、
涙もろい人。

これも全部、一人の人が持つ特性だから、
社会に出れば自分の苦手を補えるように、
計算機を使ったり、
プールや海には行かないという選択をすることもできます。

大事なことは、その苦手に気付くことなのかなと思いました。

娘が文字や数字を覚えるのがすごく苦手で、
やってもやってもなかなか身に付かない娘に、わたしは焦っていました。

これだけやってるのに、
いまだに覚えられないなんて、
娘の発達具合と照らし合わせても、なんか納得できないって。

でもそこにはゆっくりゆっくり覚えている娘がいます。

それこそが事実。

その事実があるなら、娘のペースに合わせて学習すればいい。
娘がより快適に学べるツールを探せばいい。

それだけの話だったんです。

かんもくっ子ポコたん 

ちなみに発音が正しくできるようにならないと、
正しく単語を文字に置き換えて表現することは難しいそうです。

たとえば、
折り紙のことを「おがみり」と言っているうちは、
仮に文字で書かせたところで、「おがみり」と書いてしまう、ということです。

こんな風に言葉や文字は、
表記や読み方に加えて、
話す言葉が育っていかないと、
まとまった単語や文章を読んだり書いたりはできないもののようです。

物心がついたときから、
場面緘黙症をもっていた娘は、
家族以外と話すことができなくて、
会話を通して発語を練習する機会が圧倒的に少なかったように思います。

場面緘黙症と言葉の発達の遅れ、
どちらが先かというと
卵が先か鶏が先か、という問いのように、答えの出ない質問になりますが、
それはどちらも切っても切り離せない1つの問題として、
娘という一人の人間の中にあるものなんですね。

場面緘黙症と言葉の遅れ、どっちがさき?

場面緘黙症だったから発語の練習ができなかった、
言葉が遅れていたから人前で話すことができなかった。

どちらも真なり、です。

娘の場合は、まずは楽しくたくさんお話すること。

これが今できる一番いい方法のようです。

「急かさず、ゆっくりでもいいよ、とも言わず、穏やかに聞いてあげること」

これが今わたしができることだそうです。

先生方の温かく絶妙なタイミングでの背中プッシュのおかげで、
学校でも少しずつ話せるようになってきた娘。

場面緘黙症の症状の緩和が、今なによりの成果なんですね!

知的障害を持つ子の母として、
もうかれこれ6年ほど母をしておりますが、
まだまだ知らないことがたくさん。

娘と同じで、母も一歩ずつですね。

かんもくっ子ポコたん 

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