梅雨入り宣言と発達障害の診断
今年の梅雨入りはなかなかスッキリしませんね。
勇み足?で梅雨入り宣言をした地域や、
二の足を踏んでいるかのような地域など。
5月の後半に雨が降り続いて、
早くも梅雨入りかと思わせた時期、
「今年の梅雨入りは異例の早さなのかな?」
などと家族で話題になりました。
すると我が家の上の子が、
「わざわざ宣言するほどのもんなのか?」と言い出しました。
梅雨入りにしても桜の開花にしても、
だれかがわざわざ宣言するまでもなく、
個々人が
「梅雨に入ったんだな」
「桜咲いたね」
と思えばいいじゃん。と。
宣言があるのとないのと、実際の生活は何も違わないというのです。
確かにーー!
確かに誰かに梅雨入りしましたよ、って言われなくても、
雨が続いてるから梅雨なんだろうって思えるし、
自分の近くで桜が咲いていれば、桜の季節だなぁって思えます。
じゃあなんのためにこの宣言があるのか?
ちょっと考えてみました。
◎心の準備ができる
例えば自分が住んでいる地域より、
通常早く梅雨入りする地域が、「梅雨入りしました!」となると、
自分のところも、「そろそろか」と思って、
今のうちに大物の洗濯を済ませておこうとか、
子どもの長靴のサイズを確認しておこう、とか
いろいろできることがあります。
◎雨続きが納得できる
ちぇっ。雨ばっかり。
洗濯ものも乾かないし、なんか気分も沈むな。
でも梅雨だから仕方ないか。って思える。
◎旅行やお出かけの予定決めの参考になる
桜の開花宣言などは、
桜を見に行こう!と思って出かけるときには役に立ちますね!
ここまで書いてみて、
我ながら改めて書き出すほどのことではないな・・と思いながらも、
誰か第3者に「こうですよ」と言われることで、
共通の認識ですよ、と言われることで、
心の持ちようが変わるんだなと。
これがなんだか、発達障害の診断に似ているなと思ったのです。
第3者である、専門家のお医者さんに、
「こうですよ」と言われると、
実際の育てにくさとか、難しさとかを振り返って、
「確かにな」と腑に落ちる部分があったり、
でも診断されたからと言って、
実際の育てにくさや難しさが消えてなくなるわけじゃない。
でも一人でああだろうか、こうだろうか、と
考え続けることは、ある意味なくなります。
インターネットで検索するときも、
例えば「発達障害 可能性」とかで検索していたのが、
「発達障害 改善 方法」とかで検索するようになります。
わたしは、割と白黒ハッキリさせたがる性分なので、
どうなのか分からない、という状態がすごく苦手です。
だから、
「知的な遅れがありますよ」
「場面緘黙症ですよ」
という診断が出て、
「だから、療育を始めましょう」と言われたときは、
確かにショックも大きかったのですが、
そのショックが一通り過ぎた後は、
道筋が見えたようで、多少スッキリした記憶があります。
自分が何をしたらいいのか、
どこに向かえばいいのか、
これが分からずにいることは結構しんどいです。
険しい道だとしても、
進む道がそれしかなければ、覚悟もついてくる。
ただ、それが梅雨入り宣言と違うところは、
備えの方法や乗り切る術が、まったく分からないところです。
雨が降ったら傘をさすけど、
場面緘黙症で喋れない娘には何が必要なのか?
洗濯ものが乾かなくて困れば、除湿器をかけるとかできるけど、
言葉が育たなくて困っていても、これという便利道具もない。
ただ診断されたことで、
専門家と一緒に、それを探すことはできる。
その昔、娘がまだ発達検査を受ける前、
発達検査を受けたって仕方ない、意味がない、そう思っていた時期がありました。
でも頭でそう思っていても、
心はずっとモヤモヤしてるんです。
日常的に娘の発達や成長とともに過ごしてるので、
心配事が消えるわけでもないからです。
もちろん、
ああだろうかこうだろうか、
と悩んでいる間に気にならなくなったということもよく聞きます。
発達検査を受けようと思える時期は人それぞれですが、
発達検査や診断は、
仮に何らかの診断が出たとしても、
それは単にショックを与えるだけのものではなくて、
今のモヤモヤから抜け出すための1つの道しるべだと思います。
自分一人の心配事が、
「共通の認識」になることで、見えてくるものもたくさんあります。
そう思ったらやっぱり、
梅雨入り宣言もしてもらったほうがスッキリするんだろうな!